うちゅうリブ

メンズリブ的なアプローチで、さまざまな話題を語り合う「うちゅうリブ」の公式ブログです!

第11回「うちゅうリブ」告知 —本田透『電波男』読書会—

どうも、臨時主催人のケープラ(@maoukpp)です。これまでメンバーとして、皆勤ではないがうちゅうリブに参加してきた(ちなみに「うちゅうリブ」の名付け親も実は私だったりする)。
さて、まず告知の概要から。

第11回「うちゅうリブ」開催内容

テーマ

本田透電波男』読書会

課題図書

電波男

電波男

Amazonレビューを見る限り、差異はないようなので文庫版でもOK。ただしページ数が違うので、読書会としては若干不便)

日時

2019/4/20(土) 19:45〜21:45(途中参加、退出可)

会場

大久保地域センター3階会議室B(東京都新宿区)

定員

10名(先着順)

会費

200円(会場費)

参加申し込み

主に「恋愛資本主義」の第1章とまとめの4章を取り上げる予定。課題図書を持参でき、通読している人なら誰でも参加可能。
Twitterで共同主催者のケープラ楽団@maoukppまたは環@fuyu77または久真八志@okirakunakumaアカウントにご連絡ください(DMでもリプライでも可)。

Twitterアカウントをお持ちでない方は、メールアドレスuchulib@gmail.comまでご連絡ください。

以下、告知記事としては少し長いが、導入部・レジュメとしてお読みください。あくまで私の個人的見解なので、これに対する批判や反論も大いに歓迎。

なぜいま本田透電波男』(2005年出版)か

2月の前々回、第9回で『現代思想』男性学特集の読書会をやった。そこに載っていた記事の参考文献の多くに『電波男』が挙がっていたにも関わらず、直接的な言及がほぼなかったのが不満だった。『現代思想』の編集方針なのか男性学全体なのか知らないが、どうもアンチフェミ的な言説は無視されている。
2次会でそれを言ったら、「読書会やりましょう」となった。これは意外だった。うちゅうリブに多いフェミニズムに親和的な人は『電波男』など大嫌いだと思っていたからだ。その上、主催は私である。
電波男』は14年も経っているが、オタク層限定とは言え比較的広く読まれた。文庫化もされているし、新書アレンジ版『萌える男』もある。非モテ論はもちろん、今インターネットを跳梁跋扈するアンチフェミの源流にもなっている。オタク=非モテは差別されているなどの男性差別論や、「キモくて金のないおっさん(KKO)」を持ち出す弱者男性論系の。
私も当時これを面白く読んだ。だが今、2019年の男性として、『電波男』は乗り越えなければいけない壁だと思っている。過去の自分と向き合い、決着をつけたい。2020年代への大きな宿題を、片付ける。
決して、電波男をただボロクソけなすことが目的ではない。男性以外で「非モテコンテンツ」としてこれを消費した人もいるかもしれないし、色々な人の見解を聞きたいのでいつものように男性以外の参加者も歓迎したい。

恋愛資本主義とは何か

ニーチェの「神は死んだ」以降人間はすがるものがなくなり、恋愛にすがるようになった。それが資本主義=消費社会と結びついたのが現代。世の中が「カネを稼いで恋愛しよう」という価値観になってしまった。男がモテるには、顔かカネ(地位・権力)しかなくなってしまった。恋愛全体が「援助交際」化し、ブサイクはカネで愛を買っているだけ。神に続いて今、愛も死んだ。真実の愛など、どこにもない。

……ざっと要約するとこんな感じになる。『電波男』の問題点は主に当時流行っていた酒井順子負け犬の遠吠え』、倉田真由美だめんず・うぉ〜か〜』を槍玉に上げ女性叩きをしているところだが、これについては後述する。

「リアルを捨て、二次元に行く」というライフハックは成立するか?

このライフハックについて私は否定的である。本のオビにはこうある。

「もはや現実の女に用はない。真実の愛を求め、俺たちは二次元に旅立った」

これは武道のような究極の「オタク道」である。これが実践できる人は一握りのコアなオタクしかいないし、14年経った今、オタクの定義も大きく変わった。ソシャゲ全盛時代、オタクは圧倒的マジョリティとなり、ライトなオタクが増えた。ネットは半端者で溢れ、結果的に『電波男』のアンチフェミ・女性ヘイトだけが残った。
ネットで「恋愛工学」なんてものが流行ったり、結局男はモテたいままだったのだ。俗物オタクに、リアルを捨てる「解脱」などできなかった。神が死に、愛が死に、オタクも死んだのが2019年なのだ。本田透が言っていた「内気で心のやさしいオタク」は、幻想に過ぎなかった。

本田透も、こんな時代は望んでいなかったのではないだろうか。たしかに非モテ男として女性への恨み言を述べてはいるが、露骨な女性蔑視的な発言があるわけではない。フェミニズムにはオタク批判へのカウンターで少し触れただけ、男女平等などの問題については一節も触れていないからだ。あくまで非モテ男のエッセイとして、『電車男』のアンチテーゼとして面白く読めればいいくらいのノリだった可能性が高い(実際、この本は小ネタ、下段の脱線・解説欄が面白い)。
「鬼畜化せずにオタク化せよ」と第3章で述べているように、女性に対し直接的な復讐も否定している。それが今、何かに萌えるわけでもなくネットで女叩きに明け暮れるオタクたちを見て、本田透は何を思うのか。

当日の進行・予定

前述の通り第1章と4章を取り上げる予定だが、参加者が気になった箇所をそれぞれ語っていくという流れでいいと思っている。
主な論点は恋愛資本主義について、それに対する非モテ男のライフハックについて。非モテ男性が女性ヘイトに陥りがちなところをどう乗り越えるか。メインとなる第三の論点については今ここであらかじめ書くことはなく、当日語り合いたい。

それでは、4/20(土)にお待ちしています。共に2000年代にケジメをつけ、未来へ進みましょう!

第9回「うちゅうリブ」実施報告 —『現代思想』男性学特集読書会—

こんにちは、環です。第9回「うちゅうリブ」の実施内容を報告します。

実施概要

会の流れ

事前に参加者の方に当日話したい記事をアンケートして、名前が挙がった上の8記事を扱いました。2時間しかない中で慌ただしかったですが、何とかすべての記事を扱うことができました。

「とり乱しを引き受けること」の「違和連続体」という概念の可能性

なかでも、藤高和輝「とり乱しを引き受けること —男性アイデンティティトランスジェンダーアイデンティティのあいだで」の解釈に興味深い点があったので共有したいです。

決定版 感じない男 (ちくま文庫)

決定版 感じない男 (ちくま文庫)

この論文では、「性別違和(gender dysphoria)」を「違和連続体(dysphoria continuum)」として捉える考え方*1を、森岡正博さんの『感じない男』を例に、シス男性の性自認にまで適用し得るものとして拡張する試みがなされます。

元々性別違和を「連続体」として捉えようとする考え方は、トランスジェンダーを「身体は女/男だけれど、心は男/女」というように、男女二元論的に単純化された枠組みでのみ捉えることへの抵抗のような文脈で提起されたもののようです。

藤高さんは、森岡さんの『感じない男』に見られる男性身体への痛烈な違和感を根拠に、シス男性も「違和連続体」の範疇にいるのでは、という議論を展開しています。そして、シス/トランスジェンダーの差異は、性別違和の有無ではなく、その違和感を抑圧し、忘却しようとした森岡さんに対して、「シスジェンダーが無視する違和を引き受ける存在として」のトランスジェンダーというような、違和に向き合う際の「相対的な位置」に見いだせるのではないか、ということが語られます。

ここまでがこの論文の簡単な要約ですが、参加者の方から、男性学系の文章を読んでいると、自らのマジョリティ男性としての加害性や権力性を厳しく問われることが多く、つらい気持ちになることも多いけれど、この論文はそういう脅迫性がなくすんなり読めた、「違和連続体」という概念は当事者研究にとって応用可能性の高い概念ではないか、という趣旨の感想が出ました。また、先日うちゅうリブでも読書会をした、Judith Butler(以下バトラー)の『ジェンダー・トラブル』のような、第三波フェミニズム的な議論は難解な印象もある一方で、第二波フェミニズム的な当事者性の強いメッセージには分かりやすさがあり、バトラーを強いバックグラウンドに持ちつつも、当事者性への率直な言及のある藤高さんの文章には親しみやすさが感じられ、第二波と第三波の橋渡しを、「第三波サイドから第二波に寄せる」形で実現した、というような解釈もできるのでは、という話も出ました。

これは私の解釈になりますが、昨年のバトラー来日の影響もあってか、今回の男性学特集はバトラーへの言及が多い印象で、バトラーを肯定的に引用しつつもラディカル・フェミニズムへの回帰を主張する杉田俊介さんの「ラディカル・メンズリブのために」に対して、より素直にバトラー的な雰囲気を出しつつ親しみやすい議論を展開している藤高さんの文章は対照的な位置にあると感じました。

この論文で示された「違和連続体」という概念は、ともすると広範に適用できすぎてしまう危険もありますが、当事者研究への応用という観点から考えても、非常に興味深い概念になって来ると思います。

読書会を終えて

各記事について語る時間が短めになってしまったこと、当日扱えなかった文章も多かったことが、雑誌の特集を読書会として扱うことの課題として残りましたが、複数の著者の文章を複数の参加者の視点で語り合える機会には様々な発見と面白さがありました。また機会があれば、こういった読書会の企画も開いてゆきたいと思います。

*1:藤高さんによると、Gayle Rubinの議論を受けて、Gayle Salamonが提唱した。

第10回「うちゅうリブ」告知 — 『体育』はあなたにとって必要でしたか? —

こんにちは、久真八志です。私の主催では初めて、うちゅうリブとしては記念すべき10回目のご案内です。今回でうちゅうリブは一周年を迎えることになります。

第10回「うちゅうリブ」開催内容

テーマ

『体育』はあなたにとって必要でしたか?

テーマは「体育」です。ほとんどの人が学校の授業で経験した、あの時間について扱います。
参加者のみなさんの「体育」に関する思いを話してもらおうと思っています。お気軽にご参加ください。

日時

2019/03/23(土) 15:15〜17:15(途中参加、退出可)

会場

大久保地域センター3階会議室C(東京都新宿区)

定員

12名(主催者2名を含む先着順)

会費

100円(会場費)

参加申し込み

Twitterで共同主催者の久真八志@okirakunakumaまたは環@fuyu77アカウントにご連絡ください(DMでもリプライでも可)。

Twitterアカウントをお持ちでない方は、メールアドレスuchulib@gmail.comまでご連絡ください。

テーマ設定の背景

 

 私は足が遅く、50m走のタイムは小中高といつも最下位を争っていました。
 「かけっこの速い男子はモテる」といいますが、私の周囲でも体育で活躍する男子は女子から人気がありました。そもそも運動できない男子の私から見ても、運動の得意な男子には強い憧れがありました。その憧れは、特撮やアニメで活躍する男性ヒーローの抜群の身体能力のイメージからきていた……ような気がします。
 しばしば「男性は自分の身体に興味がない」という説を耳にします。しかし少なくとも体育は、男子にとって自分の身体を「男らしさ」と関連付けて捉える(捉えざるを得ない)機会だったのではないでしょうか。
 参加者の皆さんには体育が自分にとってどんな時間だったか?そのとき感じたことが今の自分にとってどんな意味を持っているか?などお聞きできればいいなと思っています。あなたにとって必要だったかどうか、結論を出す必要まではありません。

 その他、体育とメンズリブに関連しそうなキーワードとしては「着替えタイム」「体育教師」「けが」「思春期にともなう身体の成長」「集団行動」などがあるでしょうか。
 思い出話をするぐらいのつもりでお越しください。

第9回「うちゅうリブ」告知 —『現代思想』男性学特集読書会—

こんにちは、環です。最近忙しくて告知記事を書く時間がなかなか取れず、直前での告知になってしまった*1のですが、今週末に、『現代思想男性学特集の読書会を行います!

第9回「うちゅうリブ」開催内容

テーマ

現代思想男性学特集読書会

課題図書

現代思想』2019年2月号の男性学特集を扱います。参加者の方の興味のある記事について、適宜ピックアップしてフリートークする形式としたいと思うので、全記事通読していなくても、お気軽にご参加ください。

日時

2019/2/16(土) 19:45〜21:45(途中参加、退出可)

会場

大久保地域センター3階会議室C(東京都新宿区)

定員

10名(主催者2名を含む先着順)

会費

300円(会場費、レジュメ印刷費)

参加申し込み

Twitterで共同主催者の環@fuyu77またはうちゅうじん@jimmynicol88888のアカウントにご連絡ください(DMでもリプライでも可)。

Twitterアカウントをお持ちでない方は、メールアドレスuchulib@gmail.comまでご連絡ください。

課題図書設定の背景

現代思想』の男性学特集が発売されたということで、これは現代の男性学の情勢を理解する上で格好の題材になると思い、読書会を企画しました。

先日私とメンズリブ対談で熱く語り合った西井開さんも、「痛みとダークサイドの狭間で —「非モテ」から始まる男性運動」という文章を寄稿して、西井さんが関西でやっている「ぼくらの非モテ研究会」の成果をレポートしています。

実際にこの特集を通読してみて、勉強になる記事が多いと感じたのですが、

その一方で、上のツイートのツリーに書いたように、何だか物足りなかったり、男性学メンズリブについて一面的な見方しか紹介されていないと感じる部分もありました。

時間が2時間しかないので、基本的には個別の文章について語る形になりそうですが、余裕があれば、そういった、現代の男性学メンズリブの全体像についての話もできればと思います。

興味のある方は、お気軽にお声かけください。

第8回「うちゅうリブ」告知 ―「イケメン」を整理してみよう―

皆様あけましておめでとうございます。
本年も「うちゅうリブ」を、よろしくお願いいたします。

改めまして、うちゅうじんです。
1月のうちゅうリブ、テーマはずばり、「イケメン」です。

第8回「うちゅうリブ」開催内容

テーマ
「イケメン」を整理してみよう

日時
2019/1/27(日) 17:30〜19:30(途中参加、退出可)
会場
大久保地域センター3階会議室C(東京都新宿区)
定員
16名(主催者2名を含む先着順)
会費
100円(会場費)
参加申し込み
Twitterで共同主催者の環@fuyu77またはうちゅうじん@jimmynicol88888のアカウントにご連絡ください(DMでもリプライでも可)。
Twitterアカウントをお持ちでない方は、メールアドレスuchulib@gmail.comまでご連絡ください。

テーマについての説明
他人に向けてよく使う言葉でありながら、自称する人は滅多にいない存在、それが「イケメン」。
よく使う言葉にもかかわらず、その定義がテーマ設定者の私にもいまいちよくわからなかったりします。
ただ、目に見える造作が大事なのか、所作が大事なのか、態度や考え方も含まれるのか。
いま一度、参加者の皆様と、その判断基準を整理したいです。

そして、私たちはイケメンのことをどのように見ているか。
手の届かない遠い存在と思っているか、はたまた敵視しているのか。
私たちが、そこまで他人を見て自分を卑下する感情はどこから湧いてくるのか。
なぜ、自分はイケメンでない、と断言できてしまうのか…

「イケメン」という言葉ひとつで、
私たちが、自身をどう見て、どのような評価を下しているか、
他人をどう見て、どのような評価を与えているか、
明らかになってくるところがあるかもしれません。

第7回「うちゅうリブ」実施報告 —ジュディス・バトラー来日記念!『ジェンダー・トラブル』読書会—

こんにちは、環です。第7回「うちゅうリブ」の実施内容を報告します。

実施概要

会の流れ

ジェンダー・トラブル』の第1章「〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体」を扱う読書会ということで、私がGoogleドキュメントでレジュメを参加者の方に共有し、各自が事前に感想を書ける欄を用意しました。参加者のうち6名の方が事前にかなり詳細な感想を書いてくださり(事前に感想を書くのは手間なので、任意で、書ける方だけ書いてくださいとお願いしました)、当日までに読書会で話すべき論点を整理することができました。

当日は、まず一人一人が本書の感想を話し、その後全体で第1章についてフリートークする形式を取りました。

最初は、本書は難解な側面もあるので、ややぎこちない形で話が始まりましたが、段々と温まって来て、中盤からはワイワイと盛り上がった様子で会が進みました。

メンズリブ男性学にはパロディ的反復が足りないのではという問題提起

読書会の話題は多岐に渡ったのですが、この記事では、特に盛り上がった流れを一つピックアップして紹介したいと思います。

パロディ的反復という戦略

第1章第6節「言語、権力、置換戦略」で、『ジェンダー・トラブル』のタイトルにもあるような、支配的性規範にトラブル(撹乱)を起こす戦略が語られます。その主要な類型として紹介されるのが「パロディ的な反復」です。

フェミニズムの性理論においては、セクシュアリティの内部に権力の力学が存在しているからといって、それが異性愛主義的、男根ロゴス中心主義的な権力体制を単純に強化したり増大させることではないことは明らかである。性的スタイルの歴史的アイデンティティである「男役ブッチ」や「女役フェム」の場合のように、同性愛の文脈にいわゆる異性愛の慣習が「存在」したり、また性差についてのゲイ特有の言説が増殖していることは、起源である異性愛アイデンティティティが千変万化に表出しているということではない。またそれらを、ゲイのセクシュアリティアイデンティティのなかに、有害な異性愛中心主義の構造が執拗に登場していると考えてもいけない。ゲイやストレートを問わず、性の文化のなかで異性愛の構造が反復されている場所こそ、ジェンダー・カテゴリーの脱自然化、流動化にとって必要な場所だと思われる。非異性愛的な枠組みのなかで異性愛構造が反復されることは、いわゆる起源オリジナルと考えられている異性愛が、じつはまったく社会の構造物であることを、はっきりと浮き彫りにするものである。だからゲイとストレートの関係は、コピーとオリジナルの関係ではなく、コピーとコピーの関係なのである。本書の第三章の終節で論じるが、「起源オリジナル」のパロディ的な反復によって、起源というものがそもそも、自然や起源という観念のパロディでしかないことが明らかになる。

支配的性規範と類似して見える事象を、抑圧の表れとしてではなく、当事者的撹乱の行為として捉え直すものです。このパロディ的反復によって、支配的性規範はその意味をずらされ、脱自然化、つまり当たり前のように感じられていたものが、その実はまったくそうではなかったということが明らかになります。

パロディ的反復の具体例としての「女のコスプレ」

参加者の方から、自分が実生活で行っているパロディ的反復のようなものとして「女のコスプレ」という言葉が出ました。性規範として社会的に要求されている「女」のイメージに、「今日は(主に装飾や気分の文脈で、敢えて)積極的になってみよう」みたいな感覚を楽しんでいるという趣旨の話だったと理解しています。

世の中をふたつに分けるとすると、綾波レイのような女のコスプレができる女(それは広義では、てらいなくモテる女の服装ができる女と言い換えることができる。むちゃくちゃだけど、私の中ではそうなんである)、と、そうでない女、になる。

女性に対して当然のように求められている性規範は、それだけではただの抑圧ですが、「コスプレ」と言うことによって「敢えて意識的にやっている」というニュアンスが鮮明になり、そういった規範はまったく「自然で当たり前のこと」ではないということが明るみに出ます。この点で、バトラーの言うパロディ的反復の一例と言って問題ないでしょう。

男は「男のコスプレ」とは言わない

一方で、これまでのうちゅうリブでも、男性のファッションに対する不自由さや抑圧感については度々話題に上がって来たものの、「男のコスプレ」という把握は共有されていないのではという問題意識が出て来ました。個人レベルでそういう感覚でやっている方はいると思うのですが、「女のコスプレ」のように、ある程度共有されている概念については、参加者の中でも具体例がほぼ出ない様子でした。

女性装/男性装と東洋/西洋の関係

「男のコスプレ」という発想が出て来ないことについて、参加者の方から以下のような仮説が提示されました。

女性装は、歴史的に男性装の要素を取り込んで発達して来たため、男性的な服装の女性というのはごく当たり前に可能で、転じて「女のコスプレ」という発想も出て来る一方で、男性装は男性装だけで成り立って来たため、「異物」が入ることを排除しようとするのではないか、と。女性が男性装をする場合と違って、男性が女性的な服装をする場合は、ファッションではなく、「女性そのものになりたい」という印象が出て来てしまうという指摘もありました。男性には男性装しかないのであれば、「コスプレ」も何もないということになるでしょう。

また、この男性装と女性装の関係は、西洋を取り込んで発展して来た東洋と、西洋だけで成り立つ西洋の関係に類比できるという話もセットで同じ方から提示されました。

苦しいだけの男性ジェンダー論の先に

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

ここからは私の考えになりますが、これまでの男性学メンズリブは、伊藤公雄さんが提唱した「男らしさの鎧を脱ぐ」や、田中俊之さんの『男がつらいよ』という書名に表れているように、「脱すべき悪しき男性性がある」というモデルに終始して来たのではないでしょうか。この「悪しき男性性」は、バトラーも批判している第二波フェミニズムの「家父長制」概念に依拠したものです。

この点について、私は2つの問題点があると考えています。

  1. 男性が自らの男性性について過剰にネガティブな印象を持ってしまう
  2. 「悪しき男性性」を脱した先に何があるか分からない

男性もジェンダー・センシティビティを獲得しつつある現代において、ただ「悪しき男性性」から脱することを説くだけではなく、今後のメンズリブはよりアクティブで多様な需要に応えられるものになっていくべきだと感じています。

この読書会で出た、パロディ的反復の視点が足りないというのは突破点の一つになる観点ではないでしょうか。

いずれにせよ、読書会を通して、やはり『ジェンダー・トラブル』には、すべてのジェンダーに関心のある人々に対して、生き生きとした言葉を触発する効果があると、改めて確認することができたと感じています。

第6回「うちゅうリブ」実施報告 ―話題のワダイ―

うちゅうじんです。こんばんは。
遅くなりましたが、第6回うちゅうリブの実施内容を報告します。

●開催概要
・テーマ:話題のワダイ
・人数:11名
・日時:2018/11/24(土)17:30〜19:30
・場所:新宿区大久保地域センター

●テーマのおさらい
どんなに自身がジェンダーの問題に配慮しようと意識しても、日々暮らす「学校」「職場」「趣味のコミュニティ」等では、折り合いのつかないような話題に囲まれています。メンズリブ的なものに触れてから、普段の男コミュニティに戻ると改めて感じる「しんどい話題」が、多々あるのではないかと思います。
また、さまざまな人と対峙する際に、雑談するときのとっかかりが「天気」以外に思いつかないような、コミュニケーション能力の問題についてもとっかかりみたいなものを探していければと思います。

日々暮らしていくうえでの「話題」全般について、参加者と意見交換をしました。

●コミュニケーションの段階と話題
さまざまなエピソードを聞いたあと、「なぜしんどくなるのか」を参加者全員で掘り下げてみました。

はじめて会った、情報がほとんどない相手に、『お互いに敵意がないことの確認作業』として、「儀礼的」に、個人に関するさまざまな質問をしてくる人もいるということは念頭に置いておいた方がよいという意見がありました。つまり、そこはある程度割り切ってしまうことも大事、といえるでしょう。

この儀礼的な段階を「ステップ1」とすると、「ステップ2」として、『同じ価値観を持つ仲間であることの確認作業』として、恋愛や結婚、性の話題を掘り下げていく話題が出てくるのではないでしょうか。
この段階で「仲間ではない」認定をされると、性的志向に関する偏見にさらされたり、人間性を勝手に判断されたり、イヤな思いをすることが多くなってきます。おまけに、「まったくの善意で」仲間に迎え入れようと、あさっての方向のアドバイスを贈る人が現れると、気分はもっと重くなります。

また、さらに組織に長くいると、役割や序列が固定化されてしまい、『力関係の確認』のためのコミュニケーションとして、いない人間の悪口、という話題が出てきます。
悪口を言う人間は、たいてい立場が上の人間で、話し相手がそれに対抗できず、相づちを打つことしかできないのをわかっていてやっているのではないか、つまり相手に「マウンティング」しているわけです。

こういうものに日々囲まれて暮らしていますが、そうそう簡単に仕事やコミュニティを投げ出すわけにもいかず、ある程度線を引いて壁を作り、何とかしんどさをやりすごしている、というのが多くの人の実態ではないでしょうか。

●タブー
雑談の話題として、「政治」「宗教」「プロ野球」はタブーと言われていました。
プロ野球はともかく、政治と宗教はやはりタブーに近い話題で、議論自体が難解で、双方ヒートアップしやすいものではないかということで落ち着きました。

また、ひとつの例として、何度も何度も新興宗教の勧誘を受けてしまう人がいる、という話がありました。関係の浅い人に、わらをもすがる思いで自分の心の奥底にまつわる話をしてしまうと、たいていの人は距離を置いてしまい、残った人は宗教やマルチ商法の勧誘だったりするのでしょう。頭の片隅に入れておいた方がよいかもしれません。

●話が拡がる
ちょうどその頃、瀧波ユカリさんによる「ハラミ会」ネタがタイムラインを賑わしていたこともあり、男性コミュニティにまつわるエピソードから、対女性の場合どうか、という話に拡がりました。

対女性に対して、普通に仲良くしたいだけなのに、発言を恋愛的なニュアンスで解釈されないか、と構えてしまい緊張してしまう(コミュニケーションコストがかかる)という意見がある一方、むしろ、男性コミュニティの方が上記のマウンティングや圧力があり、相手に恋愛感情を持たないかぎり、最低限ハラスメントにだけ気をつければむしろ楽、という意見もありました。

なお、「ハラミ会」については、極端なかたちで戯画化されているものの、男性陣のセリフに露骨な女性排除やハラスメント発言がある、ということは一致しております。

●宿題
参加者から、ジェンダー論においては「男性は、人にものを伝えるのが得意ではない」といわれるが、そこを掘り下げて考えるべきか、という問題提起が最後に出されました。
これは、日々暮らすとっかかりの話題というテーマから一歩掘り下げて考えなければいけないところで、機会を見てうちゅうリブのテーマとして取り上げたいところであります。