こんにちは、環です。第9回「うちゅうリブ」の実施内容を報告します。
実施概要
- テーマ:『現代思想』男性学特集読書会
- 人数:7名
- 日時:2019/2/16(土)19:45〜21:45
- 場所:新宿区大久保地域センター
会の流れ
- 伊藤公雄「男性学・男性性研究=Men & Masculinities Studies —個人的経験を通じて」
- 深澤真紀・清田隆之(桃山商事)「「草食男子」から考える日本近現代史」
- 中村正「暴力の遍在と偏在 —その男の暴力なのか、それとも男たちの暴力性なのか」
- 杉田俊介「ラディカル・メンズリブのために」
- 森山至貴「ないことにされる、でもあってほしくない —「ゲイの男性性」をめぐって」
- 藤高和輝「とり乱しを引き受けること —男性アイデンティティとトランスジェンダー・アイデンティティのあいだで」
- 貴戸理恵「生きづらい女性と非モテ男性をつなぐ —小説『軽薄』(金原ひとみ)から」
- 西井開「痛みとダークサイドの狭間で —「非モテ」から始まる男性運動」
事前に参加者の方に当日話したい記事をアンケートして、名前が挙がった上の8記事を扱いました。2時間しかない中で慌ただしかったですが、何とかすべての記事を扱うことができました。
「とり乱しを引き受けること」の「違和連続体」という概念の可能性
なかでも、藤高和輝「とり乱しを引き受けること —男性アイデンティティとトランスジェンダー・アイデンティティのあいだで」の解釈に興味深い点があったので共有したいです。
この論文では、「性別違和(gender dysphoria)」を「違和連続体(dysphoria continuum)」として捉える考え方*1を、森岡正博さんの『感じない男』を例に、シス男性の性自認にまで適用し得るものとして拡張する試みがなされます。
元々性別違和を「連続体」として捉えようとする考え方は、トランスジェンダーを「身体は女/男だけれど、心は男/女」というように、男女二元論的に単純化された枠組みでのみ捉えることへの抵抗のような文脈で提起されたもののようです。
藤高さんは、森岡さんの『感じない男』に見られる男性身体への痛烈な違和感を根拠に、シス男性も「違和連続体」の範疇にいるのでは、という議論を展開しています。そして、シス/トランスジェンダーの差異は、性別違和の有無ではなく、その違和感を抑圧し、忘却しようとした森岡さんに対して、「シスジェンダーが無視する違和を引き受ける存在として」のトランスジェンダーというような、違和に向き合う際の「相対的な位置」に見いだせるのではないか、ということが語られます。
ここまでがこの論文の簡単な要約ですが、参加者の方から、男性学系の文章を読んでいると、自らのマジョリティ男性としての加害性や権力性を厳しく問われることが多く、つらい気持ちになることも多いけれど、この論文はそういう脅迫性がなくすんなり読めた、「違和連続体」という概念は当事者研究にとって応用可能性の高い概念ではないか、という趣旨の感想が出ました。また、先日うちゅうリブでも読書会をした、Judith Butler(以下バトラー)の『ジェンダー・トラブル』のような、第三波フェミニズム的な議論は難解な印象もある一方で、第二波フェミニズム的な当事者性の強いメッセージには分かりやすさがあり、バトラーを強いバックグラウンドに持ちつつも、当事者性への率直な言及のある藤高さんの文章には親しみやすさが感じられ、第二波と第三波の橋渡しを、「第三波サイドから第二波に寄せる」形で実現した、というような解釈もできるのでは、という話も出ました。
これは私の解釈になりますが、昨年のバトラー来日の影響もあってか、今回の男性学特集はバトラーへの言及が多い印象で、バトラーを肯定的に引用しつつもラディカル・フェミニズムへの回帰を主張する杉田俊介さんの「ラディカル・メンズリブのために」に対して、より素直にバトラー的な雰囲気を出しつつ親しみやすい議論を展開している藤高さんの文章は対照的な位置にあると感じました。
この論文で示された「違和連続体」という概念は、ともすると広範に適用できすぎてしまう危険もありますが、当事者研究への応用という観点から考えても、非常に興味深い概念になって来ると思います。
読書会を終えて
各記事について語る時間が短めになってしまったこと、当日扱えなかった文章も多かったことが、雑誌の特集を読書会として扱うことの課題として残りましたが、複数の著者の文章を複数の参加者の視点で語り合える機会には様々な発見と面白さがありました。また機会があれば、こういった読書会の企画も開いてゆきたいと思います。
*1:藤高さんによると、Gayle Rubinの議論を受けて、Gayle Salamonが提唱した。