うちゅうリブ

メンズリブ的なアプローチで、さまざまな話題を語り合う「うちゅうリブ」の公式ブログです!

2010年代メンズリブ対談 -メンズリブのこれまでとこれから-

2018年6月9日に新宿で、関西でメンズリブ団体〈Re-Design For Men〉を主催する西井開さんと、〈うちゅうリブ〉共同主催の環がメンズリブのこれまでとこれからについて対談しました。以下、当日話した内容の文字起こしをベースに、文章で意図が正確に伝わるように加筆・修正した内容を公開します。

プロフィール

西井 開@kaikaidev

「男の語りの場をつくる」市民団体〈Re-Design For Men〉@ReDesignForMen1代表。2年前から仙台・大阪で男性に関わるテーマについて基本男性だけで語り合う〈男の勉強会〉、昨年12月24日から非モテ、元非モテ男性の当事者研究グループ〈ぼくらの非モテ研究会〉@himotemotemoteを主催。大学院にてコミュニティ心理学、男性学を勉強中。

@fuyu77

メンズリブをベースとした語り合いの場〈うちゅうリブ〉をうちゅうじん@jimmynicol88888と共同主催。Twitterブログジェンダー関連の話題を発信している。

メンズリブに至った経緯

 まずはメンズリブに至った経緯から話しましょうか。西井さんはどうなんでしたっけ。

西井 僕は〈男の勉強会〉*1を始めたのがちょうど2年前ですね。当時仙台にいて、仙台の貧困家庭の子どもを支援するNPOで働いてたんですよ。その時に同僚で女性センターで働かれていた人がいて、その人に「これからも対人援助やっていくんだったらジェンダーのことをちゃんと勉強しなさい」と言われたんですね。

時を同じくして、近しい女性がデートDVにあったんですよ。それで問題意識を抱いて。仙台の男女共同参画センターがDV講座に力を入れていて、その講座で、NPO法人レジリエンスというDV啓発をされてる団体の中島幸子さんというサバイバー(DV被害者)の方の被害経験を聞きました。壮絶なお話で、命の危機も感じたほどのトラウマを抱えてらっしゃる方だったんですけど、DV加害者は優越のために暴力をふるう、と言うんです。それを聞いた時に、他人よりも上回りたいという側面が自分にもある、だとすると自分もDVをやってしまうことが起きるんじゃないかということを考えたんですね。それで僕は加害男性叩きではなく、どうすれば加害せずに済むか、という方向に思考が働いた。またそのDV講座っていうのが参加者100人ぐらいいたんですけど、参加する男性が僕含めて5人くらいやったんですね。DVを受けないことや、受けた後のことも大事だと思うんですけど、DVしないことも大事だなと思って。やっぱり身体的なDV加害は男の方が圧倒的に多いので、それを考えるとやっぱり男が変わっていかないといけないなと感じました。そして伊藤公雄の『男性学入門』に出会い、その本の中に〈メンズリブ研究会〉*2なるものが90年代にあったということ知って、僕もやってみようと思った、という流れです。

 仙台の参加者はどういった方面から集まって来られたのですか。

西井 最初は僕の知り合いばかりだったんです。NPOで働いてた時の元同僚とか、ちょうど団体を作ったころ僕はニートだったんですけど、キャリアカウンセリングを受けていて、担当してくれてたキャリアカウンセラーの人とか来てて(笑)。あとは仙台男女共同参画センターで開いてたんですけど、そこを拠点にして口コミなどで集まってきました。

 リアルの繋がりということですね。

西井 そうです。だからSNSで来たっていう人はほとんどいなかったですね。そんな調子で月一ぐらいでやってますね。関西では〈男の勉強会〉は5回ぐらいやって、そこから〈ぼくらの非モテ研究会〉*3(以下〈非モテ研〉)に切り替わりました。〈非モテ研〉は7回ぐらいやりましたね。

 今は〈非モテ研〉がメインということですね。

西井 そうです。

 西井さんが非モテを扱うのはちょっと違和感があって。全然非モテっぽく見えないし(笑)。どうして非モテをやろうと思ったのですか。

西井 〈非モテ研〉を始めたのは理由が二つあって、一つは僕も恋愛で苦しんだ経験があったので、非モテに悩む男性や童貞に対する謂れのないバッシングが許せなかったんですね。ひとくくりにしてコミュニケーション障害だとか、女性をモノ的に見ているだとか、それが腹立たしかった。ただ逆に非モテを抱えた男性が、憎しみを増幅させてミソジニーのような暴力的な方向に行くのも歯がゆかった。やはり背景には何か思いがあるだろうし、それを細かく見て行きたい。そして苦しさを共有できる場があったらなと思った、というのがあります。もう一つは〈男の勉強会〉というのは性自認が基本的には男性寄りの人たちが来る場、という形でやってたんですね。ただ「男性」という大きな枠組みだとあんまり深い話にならないような感触があったんです。それよりももっと内面を、こういうことを感じたり思ったりする、苦しんでるっていうのをもっと話してほしかった。生きてる上での違和感みたいなことから自分を語るきっかけは生まれてくるので、そのフックとして「非モテ」というのは使えるんじゃないかな、というの思いがありました。つまり〈男の勉強会〉というのは差異性が高い。いろんな男たちが来る。マッチョ的な男性も男らしくない男性も来る。それを「非モテ」というふうにくくると、ある種の同質性の高いコミュニティができる。だからより深い話ができるんじゃないか。それが案の定当たったんです。

 西井さんの話を聞いているとマッチョな人も来るっていうのが面白いなと思っていて、〈うちゅうリブ〉*4には全く来ないんですよ。リアルの繋がりだからこそということですかね。

西井 あんまり多くないですけど、一回あったのは「男と童貞」っていうテーマで行った時に、マッチョな人が来て、恋愛経験を自慢したり、「セックスは男と女の愛の確認作業だよ」みたいなことを言う人で、童貞男子達が小さくなるみたいな事が起こったんです。そういう危険があるんですよね、参加者の幅を広くしておくと。環さんはどういう経緯で始められたんですか?

 私自身はTwitterジェンダー周りの話題を語るアカウントを3年ほどやっているのですが、〈うちゅうリブ〉を始めたのはすごく浅いきっかけで。〈うちゅうリブ〉はうちゅうじんさんというハンドルネームの方と共同主催しているのですが、そのうちゅうじんさんがツイキャスのラジオ配信で安田鋲太郎さんという方と「もし宝くじで2億円当たったら何をする?」みたいな話をしていた。そこでうちゅうじんさんが「メンズリブ団体を立ち上げて主催になりたいわ」みたいな話をしていて、それを聞いていた私が「メンズリブ団体なら2億円なくてもすぐにできるでしょ。今すぐやりましょう」とコメントして、二人でやろうという話になりました。割とトントン拍子で新宿に会場を見つけて、Twitterで参加者を呼びかけて始めたという感じです。西井さんの会が既にモデルケースとしてあったので、メンズリブの会で何をやるかのイメージはありました。まあ簡単ですよね。テーマを決めて普通にフリートーク形式でやるという感じで。〈うちゅうリブ〉は今のところ3回行いました。

西井 ジェンダーはもともとどういうところから興味を持ったんですか?

 最初は上野千鶴子先生の『近代家族の成立と終焉』を読んだんです。軸としてはまず家族ですね。上野先生が『近代家族の成立と終焉』で「みじめな父」と「いらだつ母」と「ふがいない息子」という家族のモデルを提示しているのですが、それが自分の家族にそのままあてはまった。父と母は不和というほどではないのですが、口論していることが多くて、「どうして仲良くできないのだろう」というところにジェンダー的な問題意識があった。そこを上野先生の本が説明してくれたので、自分の問題意識にフェミニズムが答えをくれると感じました。

ただ、それとは別に当時の私は「彼女いない歴=年齢」の非モテで、現実の女性とまともにコミュニケーションできていない段階だった。フェミニズムは読んでたんですけど、頭でっかちと言うか、実際の女性の事情を何も知らないという弱さがあった。その後今の妻と出会って恋愛をすることになって、どうやったら女性と上手くコミュニケーションできるかということを知るために女性の書いたエッセイなどを大量に読んだりして、共感的な視点というか、女性的な考え方が分かるようになって来たと感じる時期があったんですね。それでジェンダーとか性の話題について理解が深まって来たという感覚があったので、アウトプットをしてみたくなった。最初は「はてな匿名ダイアリー」というサービスで匿名で記事を書いていました。「非モテから脱するにはどうすれば良いか」というような恋愛論が中心でしたね。それを半年ぐらいやった後に、匿名では満足できなくなってTwitterアカウントとブログを作って、最初は恋愛論や脱非モテ論をメインに、セックスのことも書いたりして、結構好き放題書いてたんですね。それと並行して、フェミニズムメンズリブ的な男性ジェンダーの話題についても書いていました。こういう経緯なので、アカデミックなフェミニズムにも関心がありますが、ネットのカジュアルな話題の方により詳しい感じです。

それと言い忘れていたのですが、バトラー*5の『ジェンダー・トラブル』には強い影響を受けています。『ジェンダー・トラブル』から男女二元論に対する批判的な見方を得て、そこはずっと意識している部分です。

メンズリブにおける参加者の枠 -「男性」限定とするか否か-

 「メンズリブ」には「メンズ」と言ってしまっているところに男女二元論的な問題があると思っています。「参加者は男性限定です」と言ってしまうと、男性ジェンダーの問題に関心があっても「自分は対象じゃないな」と感じてしまう方がいるのではないか。そういう問題意識から、〈うちゅうリブ〉の参加者は男性に限定していません。

私の考え方としては、ただ参加者の性別を「指定しない」というもので、これは「女性の参加者も歓迎します」と言うのとはニュアンスが違うと思っています。よく「男も女も関係ない」みたいに言う人がいるじゃないですか。「ジェンダーは社会的に押し付けられたもので本当はオリジナルな個人がいるだけなんだ」みたいな。私はそういう考え方はあまり好きじゃない。そうではなくてフラットに「指定しない」。つまり、男性だけ参加してくださいということを言わない。それで実際女性も来るんですけど、女性を集めているとか女性も参加できますよ、ということではなくて、ただ男性限定ということを言っていないだけという意識なんですね。男性ジェンダーの話題を扱うことは前提としつつ、参加者に「男性」というフレームを強制しない。この「指定しない」という考え方は割と汎用的に有効なんじゃないかと思っていて。Twitterなどでも「男」とか「女」という語を入れたくなったときに、これは本当に入れる必要があるのか考えてみるみたいな。意外と入れなくても意味が通ることが多いんですよ。

西井 〈Re-Design For Men〉の方は意図して男限定にしています。最初はあんまり考えてなくて、〈メンズリブ研究会〉を下敷きにしてただけだったんです。あれは男限定だったんですね。それをとりあえずやってみようということで行っていて、1年ぐらい行った時にやっぱり男限定でやってた方がいいなというのは感じて。一つは〈メンズリブ研究会〉も言ってるんですけども、女性がいると男性が恰好つけちゃうというのはあると思っています。この前も〈非モテ研〉で女性ありの会をやったんですね。そうしたらそれまでは結構自分の煩悩や考え方をさらけ出していた参加者が、私も含め、教科書的なことしか語れなくなった、ということが起きたんです。それと、そういう本音を出した語りをした時に、その場に女性がいた場合、女性を傷つけてしまうんじゃないのかという恐れがあります。それでテーマによっては男性限定にすべきじゃないかな、というふうに思いますね。ただLGBTを取りこぼすっていうのは僕もすごく悩んでるところです。だから人から見られる時に男性寄りに見られるとか、性自認が男性寄りとか、やや曖昧な言い回しで集めてる感じですね。

 でもそれもどうなのかなと思うところはあって。男性だけでやったとしてもその中で傷つく男性がいる可能性もある訳じゃないですか。例えばフェミニズムについて話すというテーマがあったとして、男だけだったら厳格なフェミニストのように男性を糾弾する人はいないから、のびのびと話せるというような前提はないですよね。どれだけシビアなフェミニストかということも男性の中で分かれている。私の考えでは、メンズリブ的な語りの場では基本的には何でも喋って良いという前提がある訳ですが、そうは言っても本当に何でも喋る訳にもいかない社会性と言うか、他者の存在を意識して喋らなかったりすることも大事なんじゃないかなと思っています。

西井 なるほど。実際の社会を見ればそれがリアルっていうことですね。僕はどちらかと言うとクローズさがあるから出てくる話が、個人的に好きっていうのもあるんでしょうね。男性だけで自分の話をするという非日常的な空間を作ることで、出てくる言葉がある。男性っていうのは今まで透明でいられたというのがあると思うんです。自分を語らずに済んできた。自分がいったいどういう価値観を持ってるのか、どういう行動を取ってるのか、ということをあんまり自覚していない。つまり自分の輪郭みたいなものがちゃんとわかってないんじゃないかと思うんです。現状に生きづらさや上手くいかないという思いを持っているのだとしたら、やはり自分と社会の変化が必要になってくる。でも男であること、男として生きてきたことを自覚する、認めるということがないと、そこから変化もない気がするんです。その輪郭がはっきりしないとそれ以外の逸脱やズレみたいなものがなかなか見えてこないから変化もない。輪郭をはっきりさせるためには、とりあえず語り尽くそうという、まあそれもややマッチョな感じしますけど(笑)、そのような考えがあって、男だけというのは大事なような気がしています。

後はやっぱり〈非モテ研〉は自助グループ的なものも意識しています。ある程度同質性を持っているから、みんな「わかるわかる」という共感的な相槌をうつんですね。それが癒しのようなものになっていく。「運動ができない」ということや、「身長が低い」ということで揶揄されてきた経験が共有される。疎外されてきた男たちがそこで繋がれるということが起きる。その時、全然違う他者がいたら、疑念を抱かれたり揶揄されたりしかねない。それを避けるために同質性というのは大事だなという風に思います。

 どこを重視するかですよね。

西井 そうですね。環さんの言うリアルな社会性を重視する、というのはすごく大事だと思いました。というのも男だけで喋っていても、今までの男性的な語りを焼き直ししてるということにもなりかねないんですよね。リアルな女性の声をちゃんと聞かないと、他者が何を考えているか分からずじまいというのもあるので、どっちも良さがあるんでしょうね。

 もう一つ「指定しない」ことのメリットとしては、指定していたら届かないけれどメンズリブを欲している層に届くということがあるんですね。トランス願望がある男性とか、女性であってもフェミニズムよりもメンズリブ的な枠組みの方が話しやすい人。フェミニズムの言う「女性はこう感じている」ということに共感しない女性も結構いるみたいで。性規範による抑圧は感じているけれど、フェミニズムで語られる「女性」の立場と自分は異なっていると感じていて、メンズリブという枠組みの方が話しやすいという感想を参加者の方からいただいたことがあります。

西井 なるほど。その話を聞いてしっくりきたんですけど、〈うちゅうリブ〉はメンズリブと言うか、異性愛中心主義などのジェンダーセクシュアリティにまつわる規範による抑圧から逃れたい、解放されたいっていう人が集まってきてる感じがしますね。

 今はそんな感じですね。

メンズリブの会を開く意義

 正直なところ、メンズリブって何の意義があるの?って思うこともあるんですよ。西井さんの方で何か答えがありますか。例えば「飲み会で恋愛の話をされるのは嫌だ」という話題はよく出ますが、特に議論が起きる訳でもなく共感して終わりという感じで。積極的にそういう風潮に抗議しようという話にもならない。

西井 それで癒されるみたいなことはないんですか。普通の場所やったら「それ大丈夫?」と言われそうなことがそこなら言える、ある種のカタルシスみたいな。

 確かに喋れる場所という意義はありますね。こういうただ喋るだけの会ってフェミニズムでもやるものなのですか。

西井 あります。フェミニズムがされていたのはCR=コンシャスネスレイジング、訳すると〈意識覚醒〉っていうのをずっとされてたんですよ。

 女性の抑圧について喋る?

西井 そうです。「個人的なことは政治的なこと」というのを合言葉に、個人的な経験をみんなで出していって、男が家事をしないとかこういう被害経験があったとか。

 喋るだけというのは、メンズリブだけの方法論ではないんですね。

西井 むしろメンズリブがCRを取り入れたんです。

 少し安心しました。男だから喋るだけのヌルい活動で満足していられるのではないかっていう引け目があったんですけど、そうではなかったと。

西井 フェミニズムにおけるCRの活動は社会変革だったんです。自助グループ的なものだけではなくて、グループの中で語られたことを一般化して概念化していく。例えば「セクハラ」もそうですね。

 行政に介入して実際に制度を作るレベルの活動もありますよね。

西井 そうです。そこまで持って行ったのがCRですね。あとは〈男の勉強会〉で言うなら先ほど言ったように差異性が高いので、気づきがやっぱり大きいと思うんですよ。自分が当たり前と思っていた規範が、「他の男の人やったらこういうふうに考えてるんや」っていう事が起こったりする。

 それはありますね。同じ話題でも全然意見が違ったりします。

西井 僕はそれを〈哲学カフェ〉という、一つの哲学的テーマについてみんなでしゃべる対話グループのやり方を参考にしています。カフェにどんどん新しいお客さんが訪れて入れ替わり、全く違う方向からいろんな意見を言って行くというイメージ。それによって自分の考え方が相対化される、ということが起きると思うんですね。これはよく出す例なんですけど、〈男の勉強会〉で、薄毛の悩みが話題にのぼったんです。お辞儀をするのも躊躇われるという人がいて、その人に対して、かなり髪が薄いのにスポーツ刈りにされている方がいて、「いいですよスポーツ刈りは。守る物がなくなるんですよ、こんな楽なことはないですよ」と言ったんですね。それでその薄毛を気にされていた方が少しスッキリして帰っていったということがあったんです。ハゲはダサいという規範が、そのスポーツ刈りの人と出会うことで崩された。ジェンダーセクシュアリティって、「自分が思ってることが当たり前」というふうに思うことが多いと思うんです。それが他者と出会うことで相対化される、崩されるということが起こる。それがメンズリブの意義の一つなのかなと思います。

 それはありますね。あとは社会人ってそういう繋がりを持ちづらいから単純に色々な人と会ってお話できるだけでも意味がありますよね。共同主催のうちゅうじんさんは、フットサルをやってるんですけど、フットサル仲間とのコミュニケーションにはキツい部分もあるらしいんですよね。イケイケな感じだと思うんですけど。それとは別のコミュニティを作れるっていうのは、主催者にとっても自分に必要な居場所を作ってるというところがあると思いますね。

西井 なんか〈メンズリブ研究会〉でもそんな話は出てたらしくて、お菓子作ってくる男の人がいたらしいんですよ。お菓子を作ってくる男がいるのかという、当時90年代ですからね。そこにびっくりして新たな気づきを得たという話は聞いたことがありますね。

 〈メンズリブ研究会〉が終わってしまったのは、一通りの話題を語り尽くしたからという感じなのでしょうか。

西井 多賀太の分析だと、「男は生きづらい」や「男は抑圧されている」という話はメディアがもうだいぶ取り上げたから、〈メンズリブ研究会〉が率先して発信する必要がなくなったというのが一つ。もう一つは内部で意見の対立みたいなことがあったらしくて、男の加害性を自己批判していこうという派閥と、でも男はしんどいよなっていう派閥と、に別れたと書いてます。

 今でも〈メンズリブ東京〉出身で、Twitterで積極的にジェンダー関係の話題を発信している方は多いのですが、親フェミの人とアンチフェミ寄りの人とで、論調がまったく違う。逆に言うとそれは今の〈うちゅうリブ〉には無い傾向で、具体的に言うとアンチフェミ寄りの人は来ていない。思想的な多様性はあまりないなと感じています。

西井 多分あの時相当でかくなったんだと思うんですね、メンズリブ自体が。メンズフェスティバルでも何百人来たっていう話ですよね。それを考えたら増えたら増えたぶんだけ対立が起こるということがあるのかもしれませんね。

 どちらかと言うと私も西井さんも思想的には親フェミじゃないですか。メンズリブの中でも男性の権利主張派と、男の生きづらさを親フェミの立場で言っていくメンズリブがあって、主催者の思想によって、それとは違う思想の人は寄りつかないみたいなことは結構あると思うんですよね。

西井 あると思います。伊藤公雄も「フェミニズムの使いっぱしり」と言われてたみたいですもんね。

 『男性学』で伊藤先生が「男性たちの一部から「伊藤はフェミニズムを神のようにあがめている」などと言われる」と書かれていたのが印象に残ってます(笑)。ご本人は相当嫌がってますね。

西井 もう一つ、メンズリブの希望を見出せるところは、オルタナティブな、つまり今までの男性性とは違う、新しい男性性を作っていく下地になるんじゃないのかなと思っていて。つまりマッチョでホモソーシャルな男らしさとは違う男らしさを作っていける可能性がある。

 でもそれって結構、メンズリブとは関係なく若者全体で起きている話じゃないですか。飲み会しないとか、キャバクラ行かないとか、車買わないとか。

西井 でもそれってキャバクラに行かないとか、車を買わないとか、飲み会に行かないとか、全部しなくなっただけで。それとは違う新しくすることというのを焦点化していく必要はあるのかなとは思います。

 何をするかという話ですね。

西井 そうです。そしてそれを考える時に、〈桃山商事〉*6の清田さんが「お茶を飲む」と言っていたのがすごく新しいなと思っていて。ただお茶を飲むということ、会って話すということにやりがいを見出す。清田さんはそれを「コミュニケーションオーガズム」と言ってるんですけど、それは今までの「男らしさ」にはない男性像で、すごく大事だと思います。

この前も〈非モテ研〉が終わった後、飯食いに行った時のことなんですが、夜9時ころで、そして参加者は大体平均25歳くらいだったんです。25歳の男たちが夜9時に、飯行くってなったら飲み屋っていうのが主流だと思うんですけど、「まあうどん屋でいいですか」となってうどん屋に行ったんです。そこに新しさがあると思うんですよ。

 それは新しいですね(笑)

西井 今までの男らしさとは何か、ということが分かっていたらそことのズレみたいなものも分かるようになるので、そのズレをあえて作って焦点化していく。居酒屋のアンチテーゼとしてのお茶やうどん屋、今までの男らしさのアンチテーゼを見出していける可能性があるのかなと思います。

 今までの男らしさとは違う価値観を模索するということですね。

西井 そうです。前〈うちゅうリブ〉で話題になっていた、「男の鎧を脱いだ先に何があるのか」っていう話はすごく示唆的だなと思っていて、まだ男性学はその提示が弱いんですよ。僕は鎧を完全に脱ぎ捨てるということはできないと思うんです。なので今着てしまっている鎧を、徐々に徐々に作り変えていくみたいなことがいいのかなと思っていて。

 鎧着ている感じしますか?実は私は男の呪縛とかあんまり感じてないんですよね。西井さんはありますか。

西井 ありますあります。僕は結構マッチョなのでオラつきたがりですよ。人に対して偉そうにしたいですしマウンティングしたいという欲望もやはりどこかにあるし。

 マウンティングくらいすればいいんじゃないですか。そんなに問題じゃないような。

西井 そうですかね(笑)。弱さを出せないっていうのもあります。あとやっぱり下駄履いてるって言うのは間違いないと思いますね。

 下駄履けてるのは良いことじゃないですか。下駄履けてないより履けてた方がいいですよね。

西井 もちろんそうです。でも女性は履けてないっていうところに問題はあるのかなと思います。そして先ほどのマウンティングしたいという欲望が、女性が下駄を履くことを妨げているように思います。社会心理学者の平山亮さんが言われてるんですけど、女性の場合は〈生の基盤〉が危ぶまれているという表現を彼はする。彼は本の中で男の生きづらさと女の生きづらさを並列させるんじゃない。女の生きづらさとは〈生の基盤〉つまり、職に就けない稼げない食えない、男に庇護してもらわないと生きていけない生きづらさだと主張する。

 確かに男の生きづらさって離脱しやすいとは思うんですよね。規範的な生き方から離脱できるかどうかは単純に能力があるかどうかとか、心の持ちようの問題でそんなに呪縛か?という感じはします。今の時代は特に。会社でずっと働き続けなきゃいけないとか思わなければ、離脱しようと思えばできる。それに対して、女性の場合は賃金自体に差別があったり、社内でお茶汲みさせられたりとか、そういう問題があると考えたら、そもそも男性の生きづらさって軽いんじゃないのというのは確かに分かる。ただ一方で、男も生きづらいというか、男性特有の抑圧がないことはないと思います。

西井 そうですね。僕もニートをしてた時はご近所さんに「大丈夫なの?あの子は…」みたいなことを言われてたらしいので。何と言うか男らしさの鎧を脱ぎたくても脱がせてくれないという所がありますよね。

 私も今無職で実家にいるのですが、気持ち良く外で歩けないですからね。近所の目が気になって。普通の住宅街なんで。誰もいないことを確認してから外に出たりします。子供の頃からの知り合いの、母のママ友が自転車漕いで来たんで目を合わせて挨拶しようと思ったら、ヤバいものを見たみたいな感じで顔をそらされちゃいました(笑)

西井 田中先生の言う平日の昼間問題ですね。そういうしんどさは男性はあるでしょうね。男性の性被害とかDV被害が表に出ないのも男性に対する抑圧が働いていると思います。もちろんそれも訴えていく必要があります。ただ何か大きなものに抑圧されているという一方で、自分自身で自分自身を抑圧している、という面もあると思うんです。僕もニートの時、何としても働かなければいけないと思っていたし、そういうことをCRのように個人的な経験を出していって、社会化させていくということは出来ると思います。

男の加害性

 西井さんは「男の加害性」のような問題についてはやはり反省すべきだと思ってらっしゃるんですか。

西井 すごくあります。#MeTooの運動に対して男性たちが「僕もしたかもしれないな」という事を言ってたけれども、僕も反省的に受け止めていました。

 マジョリティが加害者として引きずり出された時の対応として二つの典型的なパターンがあると思っていて。まずは、加害性を突きつけられた時にそんなことは言いがかりだと強く否定して、アンチフェミ的な論調に傾倒するパターン。もう一つは強く反省して、男はこれだからダメだと他の男性を叩いたりとか、あるいは自罰的に内省するような発言をするパターン。その二つの方向性があると思っていて、私としてはどちらもダメだと思っています。マジョリティ側に、抑圧し得る側にいるという自覚を持ちつつ、あまりそのことには言及しないというくらいが良いのではと。

西井 僕は考え方として加害というのは、しないことはない、誰しもがしてしまうことやと思ってるんです。その中でなぜヘテロ男性の加害性をあえて取り上げるのかと言うと、してしまいやすいからだと思うんですね。自分に対して無自覚でいられるし、問われる立場でもないので、自分の言説が当たり前だと、マイノリティより思いやすいことが多い。その無自覚な言動が加害につながることになる。例えばゲイに対する「彼女おるん?」という言葉は典型ですよね。おそらくヘテロ男性は同性愛に関する知識がなければ「彼女おるん?」という言葉が相手を傷つけるなんていうことは微塵も思ってないわけですよね。そういう面でマジョリティというのはやはり加害しやすい立場にあると思うんです。なので自分も「してしまうかもしれない」という前提で考えておいたほうがいい、と考えています。

 〈うちゅうリブ〉では、加害をされた、という被害者視点の話が多いですね。そもそも人を加害したというのは話しづらいことだと思うし、いじめられた話はよく聞くけれどいじめた話はあまり聞かないみたいな。〈Re-Design For Men〉では加害の話も出てくるんですか。

西井 テーマによりますけど、暴力とかセクシャルハラスメントなどのテーマでは出てきますね。

 どれくらい加害をしてきたか、また現時点で過去の加害を反省することにどれだけの意味があるかということについては個人差が大きいと思います。従来の男性学はその個人差をごまかして、無理に「男性」全体に加害性の告白を強いるような問題点があると思っていて。イミ*7さんのブログって読まれましたか。

西井 環さんが紹介されてましたよね。ざっと読みました。

 あの方は杉田聡さんや森岡正博さんの語りの枠組みに影響を受けて自身の加害性について書いたんです。森岡さんの『感じない男』は具体的な加害経験というよりは自意識レベルの話を書いていて。男だったら誰でも自分に当てはまると感じるようなところがあると思う。極端な話、男性的な性欲があるというだけでも加害性として解釈できないこともない。実際の加害行為ではなくても。そういう曖昧で、誰にでも当てはまるようなところがあるから、男の加害性を反省するみたいなことを書くとウケるんです。実際森岡さんの本も広く読まれているし、そのイミさんという方のブログも人気がありました。加害性の迫真度が強ければ強いほど文章は面白くなるけれど、一線を越えた加害の告白はもちろん批判の対象となる。イミさんはそのラインを読み間違えて、小さい頃クラスの女の子の体操服を盗んだというのがギリギリ大丈夫なラインだと思ったらそうではなかったということですね。そういうことを書いてしまって大炎上してネットから消えることになりました。

西井 イミさんのブログは加害の大きさもあったのかもしれないけれど、どちらかというと、大学生の時に仲の良い被害者女性に打ち明けて許されたというところが問題だったんじゃないですか。

 そうでした。性被害の経験がある女性に自身の過去の加害行為を告白して許された気になったという点が批判された訳ですが、メンズリブ的な枠組み自体にそういった不適切な「告白」をさせる効果があると思っていて。安全な告白のためにクローズドな場が必要とされているというのは分かるのですが、私としてはそもそも告白する必要があるのかなと思うところがあって。認知を改めて今後は加害行為をしないというのであれば、それで良しとして殊更に過去の加害行為について語る必要はないのではないかと。

「男の加害性」という自意識に巻き込んで男性の自尊感情を不当に下げるということをこれまでのメンズリブはしてきたんじゃないかって思うところがあります。私が考えているのは、イミさんが性被害者の女性に告白して許された感じがしたというその「許し」をメンズリブが与える必要があるのではと。「ケアする男性*8」と言いますか。ケア主体になるというのがこれからの男性像の一つの指針になるんじゃないかと思うんです。許すとかも女性に要求するのではなく、自分自身で自分を許す、あるいは男性同士でやるということが必要なんじゃないかと。でも現状のメンズリブはそういう許しを必要としている人たちには届いてなさそうですね。

西井 確かに。女性専用車両に乗り込んでしまうような男たちにね。

 私たちがやっているようなメンズリブの場には既にある程度問題解決できているような人しか来ないという問題があって。

西井 僕はその男の加害性に対する自己批判みたいなことをさらにラディカルに捉えてて、自己批判したらこの件は不問にできるという免罪符として自己批判を利用してたんじゃないかと思ってるんですよ。謝ったらもう終わりみたいな、そういう男にも出会ったことがあるし、謝ったくせにまた同じことをするというのもよくある話なんで、もしかしたら厳しく聞こえるかもしれないんですけど、もし加害的な行為をしたのであれば、じゃあ次どうすればしないようになるのかということを考えていく必要があると思うんです。

 人の心を傷つけるというレベルだったら普通のコミュニケーションであり得ますけど、セクハラみたいなことってある程度のリテラシーや知識があれば、加害可能性を気にしないで済むレベルになると思っています。自分の加害可能性は現実的にほぼ無視していいレベルだって自分自身で納得できれば、もし何か間違いが起きたらそのときに特別に対処すれば良いという風に考えられるようになる。

西井 僕がイメージしているのは前働いてた職場の上司なんですけど、パワハラしていたことを指摘されて、他の職員の前で泣いて謝ったんですね。なのにまたその上司のパワハラが原因で人が辞めたんです。というのが背景にあって。なので本当の意味での反省ということが、この人は分かってなかったんじゃないかと考えたんです。どこがアウトなのか分かってなかったんじゃないか。周りに言われたから駄目だったんだなと思っただけで。だから福田財務次官もセクハラを「言葉遊びのつもりだった」みたいに言うことになるわけじゃないですか。

 「不快な思いをさせたなら申し訳ない」っていうパターンですよね。自分は悪くないけどみたいな。理屈が分かってないからああいう謝罪になっちゃう。

西井 そうですね。それと暴力に関して、アメリカの研究でパートナー間の暴力を調査した時に、暴力には二種類あるということが分かっていて、一つは関係性上の暴力。言い合いをしていて思わず手が出てしまったという暴力と、後は相手を支配するためのテロリズム的な暴力。前者の方は一発性が高い、後者の方は恒常的に起きて悪化していくことが多いということが言われていて。前者の方はジェンダー差はなかった。しかし後者の方は男の方が圧倒的に多かったそうなんです。ここにもやはり男独特の加害性みたいなことは考える必要があるのかなと思ってます。ただ一方で先ほど環さんが言われた「恐れへのケア」もすごく大事だと思っていて、臨床社会学者である中村正は、「不安定な男性性」という概念を使って、「男は男らしさが揺らいだ時、自分の男らしさを達成するために暴力を振るうことが起きる」という話をしてるんですね。そこも注意する必要があると感じています。確かに女性も暴力をふるいますし、加害性を持っている。それは訴えていく必要があるけれど、男性は男性で、自分たちが持つ男ならではの認知、そこから発される加害について考えていく必要があると思います。

 今日話していて西井さんとの意識の違いとして感じるのは、私は「加害者」としての意識がそんなにないんですね。非モテ時代に女性との接し方で不自然なところがあったとは思いますけど、それもちょっと不快な思いをさせたかも知れないなという程度で、重大な加害行為をしたとは思わないですし、これからもすることはないと思うんですよね。自分自身の加害性への反省という意識は薄くて、それよりも男性ジェンダー論者が男性に加害性をやたらと付与するような言説を展開しているのは不当なんじゃないかとか、そういう方向性の問題意識があります。そこは西井さんとの違いだと思いますね。

西井 私としては傷つけてしまうんじゃないかという危機感が私の中にあるんですね。それを被害者からの告発だけを待ってるのではいけないんじゃないかと思っていて。なぜなら権力関係があれば、告発されないことの方が多い。なので加害的な行為をするかもしれないという意識を常に抱いておく必要があるんじゃないのかなと思うんです。

 そもそも人に対する接し方がアクティブなんですかね、西井さんは。交友関係が広いというか。私の場合、妻以外の女性と親密圏で接することがほぼないので、そもそも加害しようと思っても加害する機会が無い(笑)

西井 女性に対してだけじゃないですけどね。あらゆる人に対して、マジョリティ=マイノリティという軸での無意識の加害というのは起きる。例えば僕は中学生の時「ホモ」という言葉を日常的に使ってましたし、「ハゲ」という言葉もそうです。障害者に対して具体的な加害言動をしたわけではないですけど差別的なレッテル張りは多分していました。

 それは「これは使ってはいけない表現なんだな」ということを学んで、使わないようになって解決ということにはならないのですか。

西井 気づけたらいいと思うんです。ただそこに気付くためにはある程度の感度が必要になってくると思います。

 それはそうですね。人の話をちゃんと聞いて。ただ、何も喋れなくなっちゃうのは怖いと思うんです。人のことを気にし過ぎて。私もだんだんTwitterで喋れなくなって来ていて。昔はもっとペラペラ言いたいことを喋ってたんですけど。色々と学んでいって、こういうことを言ったらまずいんじゃないかと感じることが多くなって喋らなくなった。

西井 それはもしかしたらそれを発言すると傷つけてしまうかもしれない、と思ったということですか?

 そうです。例えば日大アメフト部悪質タックル事件とかでも、Twitterのタイムラインに現役日大生がいたりして、世間からの日大バッシングに傷ついているということを書いていたりする。そういうのを読んだ後だと、「日大のここが腐っている!」みたいなことを言うのが本当に正義なのかと、疑念が生じて来る。

フェミニズム関係で言えば、私自身はロリコン表現とかは好きじゃないタイプで、ソシャゲとかをやっていても、少女性を搾取するような絵柄ばかりで、もっとPC(ポリティカル・コレクトネス)寄りの、女性の主体性を感じられるようなキャラにした方がいいんじゃないかと思ったりする訳です。でもそういうことを安直に言っていくのにも植民地主義的な嫌らしさがあると思っていて。ソシャゲをやっていても、自分はメインユーザーじゃないっていう意識があるんですよ。アニメは見るし漫画は読みますけど、萌え絵の良さとかはあまり分かってなくて、そういう立場から「これは少女性の搾取なんだ」と、横からバーンと言うのは、部外者が外から適当な批判をしているだけのように感じるんです。だからそういうことは言わない。割とアカウントを作ったばっかりの頃は「これはひどい女性差別だ」とかガンガン言ってたんですけど、今は「各自に色々な事情があるよな」という感じになっていて。

西井 確かにそこらへんはSNS上で男性フェミニストを名乗る人は安易な感じがしますよね。簡単に女性の代弁をしてしまう。

 ただ、あまり配慮されていない主張の方が多くの人に届きやすいというのはありますよね。単純化した正論のようなものを力強く主張して多くの人に読まれるものを作っていくか、賢明に配慮されてはいるけれども多くの人には読まれないようなテキストを地味に書いていくか、大きく分けてそういう二つの方向性があると思うんですね。田中俊之先生がWebとか新書で発信している内容も、「おじさんのこういうところが嫌われる」みたいなことを言ったりしますが、「それは中高年男性差別じゃないのか」とかツッコミどころはある。でも、そういう風に語った方がウケるし、メディア的には望ましいということですよね。結局のところ、どこまで繊細に配慮して喋るかということですが、個人的には一度上げた配慮のレベルをまた下げるというのは想定しづらいかなと思っています。

西井 結局僕が行き着いたのは、自分のことしか喋られへんな、ということは考えてます。実験的に書いたブログの「〇〇する男」というシリーズは、そういう思いがあったんです。

メンズリブ」という言葉への違和感

 メンズリブという表現には違和感があって。まず恥ずかしくて外でメンズリブやってるって言えないんですよね。

西井 なんでですか??(笑)

 何かすごい恥ずかしい呼称だっていう意識が自分の中にあって。「メンズ」も「リブ」もどちらも好きじゃない。

西井 何がそんなに嫌なんですか?

 「メンズ」はメンズファッションみたいな響きがダサい感じがして。あとリブも。「リブ」で「リベレーション」の略だって分からないだろっていうのもあるし、響きが胡散臭くてダサい。個人的にはダメな語が二つ合体してできた最悪の用語という印象です(笑)。田中俊之先生が「男性学」という言葉を使って「メンズリブ」とは言わないのはその辺りの語感の問題もあるのかなと邪推しているのですが。

西井 僕の認識では男性学は女性学との対比で使われてると思うんです。やはりメンズリブウーマンリブの対比で使われてる。

 私はウーマンリブという言葉もあまり好きじゃないんですよね。当のフェミニストがあまり使わないじゃないですか、ウーマンリブって。

西井 でも当初は、1970年代はものすごく使ってたはずですよ。

 でも今はウーマンリブやってますって言う人いないですよね、Twitterとかでも。フェミニストって名乗る人はいますけど。スタイリッシュさとか通りの良さに、ウーマンリブフェミニズムでは圧倒的な差があると思うんですよ。

西井 スタイリッシュさの問題なんですね(笑)。ということは活動自体じゃなくてメンズリブという呼称があまり好きじゃないんですね。

 そうですね。マスキュリズムの方が響きはいいかなって思うんですけど、今の日本でマスキュリストを名乗っている方は思想的に偏っているので使う訳にはいかない。なのでメンズリブって本当は使いたくないけどそれしかないから使ってるところがありますね。ジャンルの呼称として他に適切なものがない。

西井 そうですね。他にも男だけ集まってるコミュニティっていくつかあるんですね。僕も携わっているメンズサポートルームというDV加害男性の脱暴力グループや、薄毛の男性のグループ、父子家庭の男性グループなど、あるのはあるんです。ただそういった局所的なテーマではなく男性性というところにフォーカスするのであれば、あえて言うならメンズリブということになるんでしょうね。

 言葉には歴史があるので新しい呼称を作っても定着しないですよね。

西井 僕はそもそも「リブ」(=解放)という言葉を使っていいのかなとは考えています。まず一つはリブできるのか、という問題があります。僕は今29歳で29年間生きてきて、きっと男らしさというものが染み付いて生きてきてますから、完全に解放という言い方をしてよろしいものかというのは考えます。すべて抜け出すことはできないんじゃないか。なので解放よりも先ほど言った「作り変える」という言葉の方がしっくりくるんです。だから「リデザイン(Re-Design)」という言葉を使ってます。もう一つは解放してもいいのかという問題もあります。今履いてる下駄とかそういったことを無視して、しんどさだけを解放するということを言ってもいいのかというのはあるんです。

 しんどさから解放されること自体は良いことですよね。

西井 もちろんそうだと思います。

 自分のしんどさから解放された人がその余裕から人を助ける立場に回れるということもあると思うんですよ。苦しい自己反省みたいなことをずっとやっているのは逆に加害に繋がる可能性があると思います。「自分はこんなに反省しているのに」みたいな。

西井 だから次のアクションがいると思うんです。解放した後何をするかという。環さんがさっきおっしゃっていたケアもそうです。自分が楽になると同時に、周囲の人に対してもケアやサポートをする。それを抜きにして、次のアクションなしに解放だけを唱えるということがよろしくないんだと思います。

フェミニズムとの付き合い方

 私としては、男性のフェミニズムに対する「服従か反発か」みたいな二極化した反応を乗り越えたいという考えがあります。

男性が主体的にフェミニズムを学ぶということはできると思っています。私の場合は、上野千鶴子やバトラーを読むことで得られた考え方を自分の人生に活かして来たので、自身のアイデンティティとしては男性側、マジョリティ側だけれど、フェミニズムの学びは主体的にやって来たという認識です。マジョリティとして糾弾される部分の認識と、主体的な学びは同時にやっていいんじゃないのと思うところがある。

伊藤公雄先生は、フェミニズムの当事者性を簒奪すべきではないという観点で、「女性という経験」を持てない男性はフェミニストを名乗るべきではない、ということを言っていて、これは頷く部分が多いし、私自身もフェミニストだと名乗ることはありません。ただ、それを「正しい見解」として男性ジェンダー論者が言ってしまうのは問題があると思っていて。可能性としては別にフェミニストになれるでしょって。自分をフェミニストと定義したい男性がフェミニストと名乗ることは普通にできることだし、原則論としては、男性はフェミニストを名乗るべきじゃないというのはまったく正しくないと思うんですね。

西井 なるほど。僕もフェミニストと名乗れないと思っている。やはりそこには当事者性がいると思うんです。フェミニズムというのは女性として抑圧された者たちの声だと認識しているので、その体験をしてない自分が言うのはおこがましいし、代弁してしまうことの危険性もあるのでよう言えん。代弁というのは勝手なイメージ付け、意味づけをしてしまうということなので。上野千鶴子男性学の定義で、「女性学を経由した男性の自己省察の学問」と言っている。僕はあれは合ってると思うんです。フェミニズムが出来る前は「男と女」というものはなかった訳じゃないですか。男しかいなかった。フェミニズムを介して女性という存在が明らかになり、男が相対化された。相対化できたから初めて男性を見るということができ始めた。自己省察というのも別に反省という意味ではなくて、内面を探るという意味なので、上野千鶴子の定義は間違ってないんじゃないかなと思います。

 これは今日の話の中で言わなきゃいけないと思っていたのですが、男性学ってフェミニズムの下位互換だと思っているところがあって。ぶっちゃけて言うと、私はいわゆる男性学から学んだことって一つもなくて。男性学フェミニズムを男性向けに翻訳したみたいな性格が強いと思っています。フェミニズムを読めば普通に分かることをもう一度書いているような印象がある。

西井 男性の言葉のなさ、男性の語れなさというのは、男性学から独自に発生してきた考え方なのかな。もう亡くなられたんですが、林真一郎という男性心理学者は、量的な研究を通して男性は「マイルドなアレキシサイミア」つまり軽い失感情言語症じゃないかということを明らかにしたんです。

 確かに、例えば私の父はそういう解釈がしっくり来ますね。父は感情を言語化するのがすごい苦手。フェミニズムを読めば私が幼少期から感じていた「父の不可解さ」が解明できるのではと感じていた時期もあったのですが、フェミニズムは男性に対して外部的な分析しかできない。男性性の当事者的な解明は男性学の責務だと思いますが、現状の男性学メンズリブは失感情言語症のようなタイプの男性を切り捨てているような部分があるんじゃないかと。男らしさに抑圧を感じていて、それを言葉にできる人を対象にしている。一方で、自分の感情や思いをあまり喋らない男性も世間には多い訳ですよね。今の私の気持ちとしては、「男性」のことは全然分からないと、それが正直なところです。

西井 でもそれを語らないからストレスが溜まって色々な問題が起きてるとは思うんです。あと適切な場があれば喋ることは起きるんじゃないですかね、〈うちゅうリブ〉もそうじゃないですか。

 喋れるんですかね。喋るための場があっても父みたいなタイプが自分の気持ちを喋るとはとても思えないです。

西井 多分しゃべれないんじゃなくて、喋らなくていいと思ってる。それが当たり前になってるんじゃないかなと思います。若い世代でも感情の部分を出さないというのは思っていて、特にネガティブな部分、しんどい、悲しい、悔しい、してほしいという気持ちを私も含めてあまり出さない。悲しいという言葉は知っているけれども、でも口にはしない、ということが多分あって、それは社会構築的なものが影響してるのかと思っています。そこでメンズリブのような場で自分の感情や内面を喋っている男性たちがいるということが、一つのモデルになっていくんじゃないかと思ってるんです。

 私はやっぱり現状のメンズリブは特殊な男性の特殊なニーズに応えるという性格が強いと思っています。

西井 来るのは確かにそうした限定的な人たちしか来ないかもしれませんね。でも、感情的な言葉を使う男性達がいるんだということが社会的に認知され蓄積されていくことが大事なのかなと思います。

 ただ男性学の研究レベルで、男性に対する分析がまだまだちゃんとされていない。私や西井さんが共有しているような親フェミニズム的価値観をベースとした研究者ばかりで、同質性というか、関心の偏りは結構あるのかなと思います。でもそもそもそういう人じゃないと男性学はやらないのかも知れませんね。

西井 そうかもしれませんね。あと、フェミニズムとの付き合い方というので最近考えていることがあります。当事者研究ってあるじゃないですか。あれはもともと精神疾患を持っている人たちのグループホーム、「べてるの家」で生まれたんですね。精神医学からの独立みたいな形の運動で、これまでは自分の病や苦労を精神医学にすべてコントロールされていたのを、自分たちの手に取り戻して、自分たちでその対処法についても考えようというアクションなんです。でも精神医学に反対するんじゃなくて、精神医学もうまく取り入れる。それに対して石原孝二さんという方が、反対の「反」ではなくて、半分の「半」で「半精神医学」というふうに呼んでいます。彼ら当事者たちは自己病名と言って自分で自分の苦労に病名をつけるんですけど、医学の理論も使うので「統合失調症サトラレ型」とか、精神医学の考え半分、自分の考え半分という形でやってるんですね。専門性と当事者性が混在するわけです。この考え方がメンズリブに使えるんじゃないのかなと思っています。つまりフェミニズムに反対するのではなくて、完全に従属するのでもない、「半フェミニズム」ができるんじゃないか。例えばホモソーシャルという概念も、完全にそれを採用するんではなくて、こういうことも確かに言える。ただ男たちの話を聞いていくとこういうことも言えるんじゃないのかというアプローチができるんじゃないかと考えてます。

 そうなんですよ。そういう微妙なところを採用する必要はあると考えています。フェミニズムを絶対の真理とはせず、同時に過剰に反発することもなく。

西井 ホモソーシャルなど、間違いなく女性の視点から男性像を切り取っていますよね。それは男性像の一面なので無視することはできないけれど、ただそれを全採用してしまうと男性の実像を見逃してしまう危険性がありますよね。非モテに悩む男性に対しても、「これはホモソーシャルだ」「支配欲だ」「ミソジニーだ」というふうに断じてしまう人がいる。男たちの背景を知らずに断じてしまうのは暴力的だと思うんです。

 メンズリブをあわよくば潰してやろうと監視しているような人の存在を感じています。

微妙なところを採用していくというのは今すごく求められていることで。ネットの極端な言説が今現実に影響を与え始めているじゃないですか。リアルのメディアがTwitterではこういう風に書かれていると紹介したりする。単純に白黒つけるぞというような風潮がだんだん強くなって来ている傾向があると思います。もちろんそれは必要なことも多くて、#MeTooなどもそうですが、社会が変化していくのは全体として良い傾向だと思っています。ただその一方で、白黒つけられない部分、複雑な、何とも言えない部分を見逃してしまうことがあると感じてるんですよね。その点やっぱりリアルで話すとテキストよりも情報量が多くなって、複雑な感じになるから、メンズリブの活動としてリアルの場で話し合うというのは大事ですよね。〈うちゅうリブ〉の参加者には、Twitterではいつも喧嘩をしているような人もいるんですけど、リアルの場では普通に穏やかな感じだったりします(笑)

メンズリブのこれから

西井 メンズリブはこれからどうなるんでしょうね。

 メンズリブは流行るんですかね。流行らなさそう。

西井 ははは(笑)。Twitterでは過度な期待がかけられてるけど、流行らないですか。

 どうしても最初から答えが決まってる感はある気がするんですよね。メンズリブとして話したい話題、話しやすい話題っていうのがあるじゃないですか、定番の。男のしんどさを自由に話そうという趣旨の会を開いたら、仕事とかファッションとか、伊藤先生や田中先生が書いて来たような話がどんどん出てくるんですよ。話の方向性としても、ホモソーシャルっぽい感じとかマッチョな感じとかはダメで、そこから解放されて自由に生きられたらっていう枠組みがあらかじめ決まっている感じがする。各個人の多様性はあるんですけど、大枠としての価値観の方向性は最初から決まっているような印象があります。

西井 それはちょっと面白くないですね。そういう枠組みがまた別の規範を作ってしまうという危険性はありますよね。

 そうなんです。予定調和的になってしまう。もう3回開いてるんですけど、基本共感ベースで話す訳ですよ。第2回は「男性はフェミニズムとどう向き合うか」という論争的なテーマで行ったのですが、私の意図としては当日戦いが起きてもいいんじゃないかと思ってました(笑)。事前の告知で煽りまくって、今回は議論する感じも歓迎しますと言っていたのですが、当日は何も起きませんでした。結局「分かる」という感じの共感ベースの語りの場になっちゃうんですね。西井さんのされている〈男の勉強会〉でも批判とかはしないでくださいって言ってましたよね。

西井 そうですね。違う意見は言ってはいいけど、否定はしないでくださいというルールにしています。

 西井さんの会でも、誰かが話しているのを周りの人が「うんうん」って聞いている感じですか。

西井 そうですね、基本は言いっぱなし聞きっぱなしでやっているので。ただ確かに共感ばっかりは面白くないというのは思っていて、どうしてもかき混ぜみたいなものは必要かなと思います。

 でも難しいですよね。主催者が戦っても良いですよと言っても戦いは起きないので(笑)

西井 ロシアの哲学者のバフチンという人が「ポリフォニー=多声性」という概念を打ち出してるんですけど、人間には複数の声があって、場面ごとに人ごとに違う声を出している、その場ではそういうことを言ってるけども実は腹のなかでは別の声があるんじゃないか、という考え方なんですね。それをいかに引き出すかというのが、重要になる。そのために、一般論が語られた時よりも内面が語られた時の事を評価しようとか、その時なぜそのように思われたんですかとか、その時どういう気持ちがしましたとか、その話を聞いてあなたはどう思いましたかとか。そういう問いかけをする。

 そういうテクニックがあるんですね。

西井 既存の価値観が入ってないようなテーマ、例えば性欲とか、ゼロベースで話せることだったら差異性がすごく生まれるんで面白いですよ。

 多様な意見が出やすい話題を選択するというのは良いですね。

西井 そうですね、ちょっとマニアックな。「仕事」みたいなテーマだったら確かに答えが決まってるような感じで面白くないかもしれませんね。

 前回は「すべてを度外視、あなたのやりたいことを言ってみよう!」というテーマで二つのグループに分かれて行ったんですけど、私の席にはトランス志向のある方が二人もいて話が盛り上がりました。

西井 別のセクシャリティの人が来ると一気に変わりますよね。

 西井さんは、メンズリブを流行らせたいと思いますか。

西井 思いますよ。なんならインフラみたいになったらいいなと思ってます。

 でもあんまり注目されてないですよね、やっていても。

西井 〈うちゅうリブ〉はTwitter界隈では注目されてるじゃないですか。

 外部の人はあまり言及してないですよ。会に参加した人が感想をツイートしてくれたりするのがほとんどで。

西井 リアルだったら〈Re-Design For Men〉は仙台の男女共同参画センター界隈だったら、もう2年やってるので認知度上がってきています。ただ参加者はあまり集まらない。

 メンズリブとかやらなくてもいい人が増えて来てると思うんですよね、良い意味で。独自に正解に近づいている人は結構いる気がしています。

西井 僕は危機感をまだ持っていて、男性の自殺率が全然下がってないというのと過労死もまだまだ多い。

 それはそうかも知れませんね。ただ、流行るという気はしない。コアなニーズに応えるものというか。

西井 ニーズがそもそもあまり起きにくいと思うんですよ。語る必要はない、と思ってる人が多いから。

 メンズリブとかやってるのは怪しい界隈という風に扱われることもありますしね。

西井 わかります(笑)。活動内容に関して、負のイメージを持たれることは多いですね。「カルトですか?」とか。負というわけじゃないですけど「ゲイの集まりですか」とか。たぶん男だけで集まってるということ自体が普通じゃないと思われていると思います。〈非モテ研〉とか訳が分からない(笑)。でもそれはもう逆手に取ろうかなと思っていて、怪しいと思われてるのをよしとしちゃう。少し怪しいくらいが、誰しもがいられるコミュニティになる気がします。認知度は上がっていかないかもしれないけれど、細々と続けていくのがいいのかなという感じですね。

とりあえずじゃあこんな感じですかね。ありがとうございました。

 ありがとうございました。

*1:〈Re-Design For Men〉が主催する男性対話グループ。「劣等感」「親」「性欲」「暴力」をテーマに参加者同士でディスカッションする。10代から60代まで様々な背景の男性たちが参加する。2016年仙台市男女共同参画センターでスタート。その後大阪、京都でも開催され、合計通算30回ほど開かれる。

*2:90年代に関西で生まれたメンズリブグループ。その後メンズリブ東京など全国に展開。月1回の例会と、年1回メンズフェスティバルが開かれていた。日本男性学のパイオニアである伊藤公雄や、中村正、多賀太などの男性性研究者も関わる。現在は実施されていないが、DV加害男性の脱暴力グループや、男性からの電話相談を受け付けるグループなどが派生した。

*3:大阪府豊中市男女共同参画センターを中心に活動している。「非モテ意識はなぜ生まれるのか」「どうしたら非モテから抜け出すことができるのか」などのテーマを追求する「非モテ」に悩む男性たちの当事者研究グループ。

*4:新宿の大久保地域センターを中心に活動している。2018年3月に発足し、2018年7月現在までに3回開かれている。男性ジェンダーに関連したテーマを設定し、参加者で語り合う標準的な形式を採用。ジェンダーに関わる映画鑑賞やメンズメイクのイベントへの参加など、副次的な活動も参加者の間で自然発生している。メンズリブの考え方をベースにしているが、参加者を「男性」に限定しない点に特色がある。

*5:ジュディス・バトラーアメリカの哲学者、ジェンダー理論家。主著の『ジェンダー・トラブル』で、従来生物学的な性の区分とされてきた「セックス」も、「ジェンダー」と同様に、社会的に構築されたものであると主張。男女二元論や強制異性愛の規範性をパロディとして撹乱し、再配備するものとして、ゲイやレズビアンの実践を解釈し、その後のフェミニズムクィア理論の展開に重大な影響を与えた。

*6:恋バナ収集ユニットとして、これまでに1000人以上の男女から恋愛相談を受ける。そのエピソードをもとに男女のすれ違いや、男性のあり方などについて考察する。

*7:環とTwitter上で交流のあった人物。「人生の文脈を交わす会」という当事者的な語りの場を主宰し、Twitterとブログのテキストで人気を集めた。男性ジェンダー関連の話題も得意とし、電車内で痴漢から女性を助けた体験を書いたブログ記事は広く称賛されたが、過去の自身の性加害経験を、性被害の経験がある女性に告白して救われた気持ちになったという趣旨の記事が炎上し、謝罪後消息を絶つ。

*8:男性とケアについては平山亮や杉田俊介が問題提起している。環は河野真太郎「母の息子たちのフェミニズム」を念頭に発言した。