うちゅうリブ

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第7回「うちゅうリブ」実施報告 —ジュディス・バトラー来日記念!『ジェンダー・トラブル』読書会—

こんにちは、環です。第7回「うちゅうリブ」の実施内容を報告します。

実施概要

会の流れ

ジェンダー・トラブル』の第1章「〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体」を扱う読書会ということで、私がGoogleドキュメントでレジュメを参加者の方に共有し、各自が事前に感想を書ける欄を用意しました。参加者のうち6名の方が事前にかなり詳細な感想を書いてくださり(事前に感想を書くのは手間なので、任意で、書ける方だけ書いてくださいとお願いしました)、当日までに読書会で話すべき論点を整理することができました。

当日は、まず一人一人が本書の感想を話し、その後全体で第1章についてフリートークする形式を取りました。

最初は、本書は難解な側面もあるので、ややぎこちない形で話が始まりましたが、段々と温まって来て、中盤からはワイワイと盛り上がった様子で会が進みました。

メンズリブ男性学にはパロディ的反復が足りないのではという問題提起

読書会の話題は多岐に渡ったのですが、この記事では、特に盛り上がった流れを一つピックアップして紹介したいと思います。

パロディ的反復という戦略

第1章第6節「言語、権力、置換戦略」で、『ジェンダー・トラブル』のタイトルにもあるような、支配的性規範にトラブル(撹乱)を起こす戦略が語られます。その主要な類型として紹介されるのが「パロディ的な反復」です。

フェミニズムの性理論においては、セクシュアリティの内部に権力の力学が存在しているからといって、それが異性愛主義的、男根ロゴス中心主義的な権力体制を単純に強化したり増大させることではないことは明らかである。性的スタイルの歴史的アイデンティティである「男役ブッチ」や「女役フェム」の場合のように、同性愛の文脈にいわゆる異性愛の慣習が「存在」したり、また性差についてのゲイ特有の言説が増殖していることは、起源である異性愛アイデンティティティが千変万化に表出しているということではない。またそれらを、ゲイのセクシュアリティアイデンティティのなかに、有害な異性愛中心主義の構造が執拗に登場していると考えてもいけない。ゲイやストレートを問わず、性の文化のなかで異性愛の構造が反復されている場所こそ、ジェンダー・カテゴリーの脱自然化、流動化にとって必要な場所だと思われる。非異性愛的な枠組みのなかで異性愛構造が反復されることは、いわゆる起源オリジナルと考えられている異性愛が、じつはまったく社会の構造物であることを、はっきりと浮き彫りにするものである。だからゲイとストレートの関係は、コピーとオリジナルの関係ではなく、コピーとコピーの関係なのである。本書の第三章の終節で論じるが、「起源オリジナル」のパロディ的な反復によって、起源というものがそもそも、自然や起源という観念のパロディでしかないことが明らかになる。

支配的性規範と類似して見える事象を、抑圧の表れとしてではなく、当事者的撹乱の行為として捉え直すものです。このパロディ的反復によって、支配的性規範はその意味をずらされ、脱自然化、つまり当たり前のように感じられていたものが、その実はまったくそうではなかったということが明らかになります。

パロディ的反復の具体例としての「女のコスプレ」

参加者の方から、自分が実生活で行っているパロディ的反復のようなものとして「女のコスプレ」という言葉が出ました。性規範として社会的に要求されている「女」のイメージに、「今日は(主に装飾や気分の文脈で、敢えて)積極的になってみよう」みたいな感覚を楽しんでいるという趣旨の話だったと理解しています。

世の中をふたつに分けるとすると、綾波レイのような女のコスプレができる女(それは広義では、てらいなくモテる女の服装ができる女と言い換えることができる。むちゃくちゃだけど、私の中ではそうなんである)、と、そうでない女、になる。

女性に対して当然のように求められている性規範は、それだけではただの抑圧ですが、「コスプレ」と言うことによって「敢えて意識的にやっている」というニュアンスが鮮明になり、そういった規範はまったく「自然で当たり前のこと」ではないということが明るみに出ます。この点で、バトラーの言うパロディ的反復の一例と言って問題ないでしょう。

男は「男のコスプレ」とは言わない

一方で、これまでのうちゅうリブでも、男性のファッションに対する不自由さや抑圧感については度々話題に上がって来たものの、「男のコスプレ」という把握は共有されていないのではという問題意識が出て来ました。個人レベルでそういう感覚でやっている方はいると思うのですが、「女のコスプレ」のように、ある程度共有されている概念については、参加者の中でも具体例がほぼ出ない様子でした。

女性装/男性装と東洋/西洋の関係

「男のコスプレ」という発想が出て来ないことについて、参加者の方から以下のような仮説が提示されました。

女性装は、歴史的に男性装の要素を取り込んで発達して来たため、男性的な服装の女性というのはごく当たり前に可能で、転じて「女のコスプレ」という発想も出て来る一方で、男性装は男性装だけで成り立って来たため、「異物」が入ることを排除しようとするのではないか、と。女性が男性装をする場合と違って、男性が女性的な服装をする場合は、ファッションではなく、「女性そのものになりたい」という印象が出て来てしまうという指摘もありました。男性には男性装しかないのであれば、「コスプレ」も何もないということになるでしょう。

また、この男性装と女性装の関係は、西洋を取り込んで発展して来た東洋と、西洋だけで成り立つ西洋の関係に類比できるという話もセットで同じ方から提示されました。

苦しいだけの男性ジェンダー論の先に

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

ここからは私の考えになりますが、これまでの男性学メンズリブは、伊藤公雄さんが提唱した「男らしさの鎧を脱ぐ」や、田中俊之さんの『男がつらいよ』という書名に表れているように、「脱すべき悪しき男性性がある」というモデルに終始して来たのではないでしょうか。この「悪しき男性性」は、バトラーも批判している第二波フェミニズムの「家父長制」概念に依拠したものです。

この点について、私は2つの問題点があると考えています。

  1. 男性が自らの男性性について過剰にネガティブな印象を持ってしまう
  2. 「悪しき男性性」を脱した先に何があるか分からない

男性もジェンダー・センシティビティを獲得しつつある現代において、ただ「悪しき男性性」から脱することを説くだけではなく、今後のメンズリブはよりアクティブで多様な需要に応えられるものになっていくべきだと感じています。

この読書会で出た、パロディ的反復の視点が足りないというのは突破点の一つになる観点ではないでしょうか。

いずれにせよ、読書会を通して、やはり『ジェンダー・トラブル』には、すべてのジェンダーに関心のある人々に対して、生き生きとした言葉を触発する効果があると、改めて確認することができたと感じています。